2012年3月25日日曜日

すべてはキンバリーの思い出につながる道・・・

先日,久しぶりにJamaica に行ってきました。といっても,カリブ海にあるあのJamaicaではなく,狸小路5丁目にあるジャズ喫茶・バーのことです。今はなくなった札幌東映の地下にあった頃,高校3年だった頃に初めて行ってから,もう35年くらい通っていることになる,札幌のいや日本でも屈指の歴史を誇るジャズの店です。JBLパラゴンがこのJamaicaほど素晴らしい音で鳴っているところはないのではないかと思います。20年少し前に今の場所に移ってからも,美味しいお酒を飲みながら聴くジャズは格別で,
毎日のように行っていたものです。
キンバリーの病気治癒祈願で酒を完全にやめて4年になり,もはや酒を飲みたいという気持ちは深い井戸の中に沈めてしまってからは,Jamaicaに行く回数はぐっと減りましたが,コーヒーやノンアルコールビールでジャズを聴きにたまに行っています。

キンバリーとも何度も行ったことがあります。初めて出逢った1995年の4月8日からニューヨークに旅立った22日までの間にも,彼女を連れて行きました。そのとき,店にあったノートの切れ端に書いてくれた,
いわば初めてのラヴレターが,今も大切な宝としてしまってあります。
娘の彩が生まれてからは,まだ生後数カ月の彩も一緒に行って,ジャズの洗礼を受けさせました(笑)

そんなJamaicaに先日行ったとき,長年つきあいのある常連さんが来ていました。
彼がウェイトレスの女性と話をしているのが聴こえてきました。
「最後の晩餐になったとき,何を食べたい?」という,よくある他愛のない会話でした。

その会話が耳に入ったとき,キンバリーが人生最後に口にしたアイスクリームのこと,2010年6月11日の夜8時過ぎに昔から行っていたベン・アンド・ジェリーのアイスクリーム店で,車イスを自分で動かしながら選んでいたキンバリー,携帯に写真が一枚だけ残っている,キンバリーと彩と妹スーがアイスクリームのスプーンを持って,ポーズを取っている姿,その帰り,近くの美容室から偶然出てて来た知り合いの美容師とハグをして笑顔を交わしていたキンバリー・・・あの日のことが頭のなかいっぱいに広がって来て,涙がこぼれそうになりました。その翌日の朝,もうキンバリーの目は開きませんでした・・・あれが最後に口にするものになるとは夢にも思っていませんでした,僕もキンバリーも彩も・・・・

街を歩いていて目にした風景,友達との会話の中に出てきた店の名前・・・ちょっとしたことから,忘れていたキンバリーとの思い出が鮮やかに浮かんできてしまい,うろたえるということが本当にしょっちゅう起きています。
そして,その思い出の主人公がもういないという厳然たる事実に打ちのめされるのです。

ドメニコ・スカルラッティ/ピアノソナタ    イーヴォ・ポゴレリチ(p ) を聴きながら

2012年3月12日月曜日

高峰秀子「わたしの渡世日記」

新潮文庫の上・下2巻の「わたしの渡世日記」を読み終わりました。
凄い人生を生きたんだなあ・・・と読み終わってしばらくぼんやりとした感覚でした。
1924(大正13)年函館生まれの彼女がこれを書いたのは昭和50年のことで,そのときまでのことしか触れられていないわけですが,その後の彼女の生き方に触れることができるような文章を読みたいと思います。

一本のきっちりとした筋が通った人生を貫いた人だと思います。

スター女優だったから可能だったのでしょうが,谷崎潤一郎・梅原龍三郎など錚々たる人たちとの交流のエピソードも豊富で,黒澤明が助監督時代の恋愛など,興味の尽きない話題もたくさんで,珍しく?わりと一気読みに近い形で読み終わりました。

印象に残ったところを一つだけ。
敗戦直後,現在の東京宝塚劇場はアメリカ進駐軍専用の娯楽施設として接収され,「アーニー・  
パイル」と呼ばれていた。アーニー・パイルはアメリカ軍属の新聞記者で,沖縄に上陸し,彼我の大
激戦の最中に戦死した。どこのだれが東宝劇場を「アーニー・パイル」と命名したかは知らないけれ
ど,沖縄で死んだアーニー・パイルの話を日系のアメリカ人から聞いたとき,私はふっとアメリカ人
の中にある,優しさ,率直さをみたような気がした。日本には人の名前のついた劇場などひとつもな 
い。

ここを読んだとき,僕は彼女のものの見方・人の見方は絶対に信用できると思いました。
こういう感性を持った人が好きです。彼女のいうとおりだと思います。
一人一人の人間に向けた暖かい眼差しを持っているアメリカ人と,えてして,世間とかそういう個人を埋没させるものにむしろ気をつかってしまう日本人との違いを,彼女はこんなことからも見抜いたのだと思います。

彼女の唯一の小津安二郎監督作品「宗方姉妹」を小津安二郎監督全集で探したけどないので,おかしいなと思っていたら,この映画は小津監督の殆どの作品を撮った松竹ではなく,新東宝で撮影したものなので入っていないのでした。アマゾンで購入しました。

生前にもっと彼女のことに関心を持っていたかったと思っています。

ボブ・ディラン フリー・ホイーリングを聴きながら

2012年3月7日水曜日

シンディ・ローパー

アメリカの歌手,シンディ・ローパーが来日して,東北大震災の被災地を訪問して子どもたちと交流して,歌を歌っている姿をニュースで見ました。去年の3月11日,丁度来日中だった彼女は,アメリカ政府の避難勧告(?)に従わず,予定通りコンサートをやった,それは被災地の人々に勇気を与えたいいと思ったから・・・とマスコミの報道が本当に正確なものかどうかはともかく,彼女が日本を愛していて,自分のできる形で未来への希望を与えたいと思っていることは本当だと思いました。

彼女は僕とキンバリーにとっても,忘れることのできない存在です。

1996年1月20日にアメリカコネチカット州のキンバリーの実家近くの大きなコテッジのようなホテルで結婚式とパーティをしたあと,5月には札幌での披露宴をしました。京王プラザホテル札幌で。立食形式にして400人以上の人が来てくれました。
キンバリーは日本髪のかつらで着物姿,僕は羽織袴でした。
入場と退場の音楽は僕が決めました。どちらも演奏は大好きなマイルス・デイビス。
入場はマイケル・ジャクソンのヒューマンネイチャー。
そして退場に使ったのが,シンディ・ローパーのTIME AFTER TIME でした。
入場したときキンバリーの姿を見た人たちかからどよめきのような声があがり,キンバリーはお付きの人に言われたとおりにしずしずという感じで歩いていました。
アメリカからキンバリーの両親・弟夫婦・妹も来て,とても楽しい時間でした。

そして,彼女が亡くなった2010年の4月5日,家族で行った最後のカラオケでキンバリーがこの曲を歌ったのです。その姿がアイフォンのビデオに入っていて,彼女の歌声を聴くことができます。カラオケの画面にはニューヨークのダコタハウス(ジョンレノンの住んでいたところで,そこで80年に射殺されてしまいました)やセントラルパークのイマジンの碑などが写っています。

シンディの名前を聴くと,TIME AFTER TIMEを聴くと,キンバリーとの思い出がいつも甦ってきます。
もう彼女の歌声を聞くことがないのだと思うと,たまらなく悲しくなります・・・